cocorosalon’s diary

CHAGE&ASKAがやめられない。。。

喪服

あるネットニュースで個人的に考えさせられるニュースが上がっていた。

 

『葬儀の後、喪服のまま近くの寿司屋に立ち寄り、店主から露骨に邪険にされたという男性の新聞投書が話題に。男性は食べ終わって外に出た途端、「塩をまいておけ!」と店主の怒鳴り声が聞こえてきたといい、「喪服はそこまで忌むべきものだろうか」』

 

 

という、個人的には、良くも悪くも、日本の文化や習慣、考え方が滲み出たトラブルだな…と感じた。

 

 

なんだか気になったのでちょっと分析してみる。

 

 

まず、この記事は、お客さんである男性側だけの言い分なので、詳しい事情はわからない。どんな記事も一方のみの言い分しか載ってない記事は、私は鵜呑みにしない😅

 

 

飲食店という公共の場に、どういう事情を背負ったお客さんが来るのかは、お店側は選べない。今回、男性はたまたま喪服のままお店に訪れたので葬儀の後という事がうかがえた。

では、一旦、帰宅して普段着に着替え、来店していれば、どんな事情の後でもウェルカムだったのだろうか?

 

うーーーむ

 

 

寿司屋の店主は、何に腹を立てていたのだろう?

たまたま、その寿司屋の店主の考えが、

『死=縁起が悪い』

という、縁起を大事に考えるタイプの人だったのか…?

 

ん~、よくいう、縁起ってなに?😅

 

ではお客さんである男性には問題がなかったのだろうか?

 

例えば、男性は一人ではなく、数名で来ていて、ドンチャン騒ぎをしてしまい、他のお客さんに迷惑をかけたとか…

たまたま喪服を着ていて、お葬式の後にそういう行いをした事に店主は腹を立てたとか…

 

いや、そこらへんの事情は、ほんと分からないですけどね。

 

 

個人的にちょっと、不思議に感じる事があります。

生もあれば、当然、死も訪れる。生と死の繰り返しで歴史がつくられていくのだけど。

 

誕生に関しては、この上ないような扱いをするのに、死に関しては、敬遠される扱いを受ける場面を多々目にする。

 

数年前、近所で斎場の建設に反対した住民が、汚い言葉で書かれた看板を設置していた。

 

心が痛んだ。

 

 

大抵は、小高い田舎の山奥にひっそりと、申し訳なさそうに存在する火葬場…。

(地方、地域で異なるかもしれませんが)

 

葬儀場も火葬場も、もっと堂々としていたらいい。

人生、一生懸命に生きて、人生の幕を終えた人を送り出すって、残された側は淋しくて悲しくて辛い事だけど、素晴らしい事じゃない?

 

『お疲れさまでした。今までありがとう』

 

って、人の誕生も死も、同じくらいに尊いものだと思うよ。

 

 

私の大好きな映画、「おくりびと

 

まだ観た事のないかたへ、ぜひおすすめします。

 

なんか、人間くさくて、死をテーマにしてるんだけど、重くなくて、でも考えさせられる素晴らしい映画です。

 死を考えると、今の大切さを感じます。

 

って、ちょっと話が脱線しちゃったけど、

 

 

生きている以上は、誰にでも死は必ず訪れるから、

 

『死』=縁起が悪い

 

とか、邪険に扱うとか、

 

ちょっと待ってーーー!

 

って、思ったネットニュースでした。

ある日、突然…(ひとりごと)

人間にとって、一番の負荷(ストレス)とはこれまでの環境が自分の意思に関係なく一変する事だと思う。

 

実際に熊本地震以降、地震が直接の原因で亡くなられた方よりも、地震による関連死で亡くなられた方の数が上回っている。

 

そこそこに健康体の自分でも、死の恐怖に怯えながら過ごした震災真っ只中は、メンタル的には相当しんどいものだった。

 

 

普段の何気ない平和な日常は決して約束されたものではない。

極端に言えば、今こうしている次の瞬間に何が起きてもおかしくはないのだ。

 

 

今月の初め、我が家に激震が走った。

 

家族みんな、想像もしていない事だった。

 

その影響により、私は職を失う事となった。

 

10年間の相も変わらない日常は、その日を境に一変した。

 

何とか頑張ってプラスに考えて、これを転機ととらえて、道を切り開くかは自分次第だ。

 

今、私は自由なんだ。

望んでいなかった自由がいきなり手に入るのも困るもんだな…。

 

さぁて、とりあえず、あと二年。

あと二年間は何がなんでも頑張るぞ!

傾聴

『傾聴』とは

熱心に耳を傾けて話を聞く事。

 

 

ざっくり言うと、こういう事らしいですが、最近の自分の出来事から本当に大切な事だと思います。

 

今年に入って、特にそう思った経験をしました。

会社で、ある男の子がいました。(Y君)

Y君はみんなより若いですが、仕事にかける情熱が強すぎる為にどこか空回りしていて、会社で問題が起きると部署関係なく解決したがり、自分の考えをあれこれ提案してきます。最初は有り難く提案を参考にしていましたが、提案が的外れの場合も多々あり、正直、Y君が面倒な人と化していました。

Y君と他の社員との衝突は多々発生していて、私とも衝突がありました。

この衝突の時に私はY君に思っていた事をすべて、ぶつけてしまいました。

その後に、彼はとても悲しい顔をしていて、うっすらと涙を浮かべていました。

 

『ハッ』っとしました。

胸がぎゅっっと締め付けられました。

人を傷つけた……

 

Y君の本当に言いたかった事は何だったのだろう…

 

私は傷つけてしまったY君の心を労りたい一心でY君の本心をしっかりと、真剣に耳を傾けて話を聞きました。

Y君は汗をポロポロとかきながら、早口で身ぶり手振りを交えながら一生懸命話をしていました。

 

そう、彼は、みんなの邪魔をしたいのではなく彼なりに真剣に会社内のトラブルを改善したい、話を聞いて欲しいだけだったのです。

 

彼に対して、『面倒な人…』という先入観が出来てしまっていたので、私は彼の話を聴けていなかったのです。

 

その一件以来、彼は何かあるとよく私に相談してくるようになりました。

彼の話をよく聴いていると、『面倒な人』という印象は全くありません。

 

その体験からたまに耳にしていた、

傾聴』の大切さを身を持って体験させられた出来事でした。

 

 

最近、私の家族内で大きな揉め事が発生しました。

皆、それぞれに考えと意見があり対立します。

私は中立な立場で一人一人の声に耳に傾け、話を聴きます。

皆の言う事が自然と理解出来ます。

誰かの肩を持つという気持ちが起きないので、余計に話がこじれる事も回避できているような気がします。

不思議と怒りも発生しません。

 

 

『その人は何を言いたいのか』

 

自分にしっかりと聞く気持ちさえあれば、人の心は伝わりますね。

先入観や邪気を持たず、『無』の状態で。

 

 

これから自分にとって『傾聴』とは人生を上手く乗り切る為の財産になりそうです。

鼻よ鼻よ高くなれ~~

鼻が高くない私にとってスッと鼻筋の通った鼻は憧れだ。

気休めで、鼻を高くする矯正器具(鼻用の洗濯挟みみたいなの)を毎日数分くらい鼻を挟み、習慣にしていた。

ところが、ある日、その矯正器具が壊れて使えなくなってしまい、思いつきでシンクロ選手が使う、あの鼻栓を代用してみようか?と思い500円以内で購入。

これが思いのほか強力に鼻を挟んでくれ、効果が出そうな予感がかなりした。

 

二週間程、鼻栓を1日10分くらい使用していたある日の事、妹から

『あれ?鼻高くなった?』と、なんとも喜ばしい言葉をかけられる。

 

やっぱり、あの効果の出そうな予感は当たったのだ。

 

鼻にコンプレックスを抱える方、是非、鼻栓オススメですよ(^.^)

 

なんてったって500円以下で購入できますしね(笑)

だけだけごはん

こう見えて?一応、わたくし、調理師免許持ってるんですけどね…😅はい

 

で、最近、魅力的に感じるお気に入りの料理法があるんですよ( ; ゜Д゜)

 

これはですね、もう料理出来なくても大丈夫!!

はい

 

 

何せ、切ったり、焼いたりしかしないのですからーー(笑)

 

 

で、本日の夕食『だけだけごはん』メニュー

 

◆天草産ワカメとゴマの混ぜごはん

(塩ワカメを洗って刻み、ゴマを炊きたての御飯に混ぜ込んだだけ)

 

◆キノコたっぷりお味噌汁

(エリンギ、えのき、しめじに、揚げと豆腐とネギをプラスしたお味噌汁)

 

◆焼き玉ねぎ

(やや厚目に輪切りスライスした玉ねぎをゴマ油で焼いただけ。鰹節をのせポン酢で食べる)

 

◆トマトスライスの青じそのせ

(輪切りスライスにしたトマトに千切りにした青じそをのせるだけ。ポン酢で食べる)

 

◆九州産豚ブロックの粗挽き胡椒・醤油焼き

(豚ブロックをやや厚目に切り焼いて粗挽き胡椒と醤油で味付けしただけ)

 

 ◆キュウイのスライス

(デザートにキュウイのスライス)

 

・・・・と、いう具合に、切ったり、混ぜたり焼くだけの『だけだけごはん」にハマっています。

 

昔、あのタモリさんがテレビで言っていました。

「料理は引き算」だと…

 

こういうことなんですかね??

わかんないですけど。

 

シンプルな素材をシンプルな調理法でシンプルに食べる。

なかなかいいものですよ。

素材の味がしっかりと味わえて。

焼き玉ねぎ、美味しいですし、健康にもいいですし。

 

 

 

 

忙しいとき、料理に疲れたとき、いかがですか~~??

食に関して思うこと

当たり前だけど、人間は食べたもので出来ている。

ある事をきっかけに普段何気なく口にしていた食品を見直す事も増え、結果食べなくなったものも結構ある。

 

基本的に食べる事は昔から好きだ。

甘いお菓子も好きだし、パンも好き。

お菓子を広げ、家族で団らんしている時ほど平和な時間はないと思っている。

 

そんな幸せな時間に登場するお菓子も、よーく見極めないと、あらゆる添加物と安価な油で出来た商品がほとんどだ。

 

何故、添加物がいけないのか?

安価な油がいけないのか?

 

特に人工の添加物は自然のものではないため、身体に取り入れられても代謝しにくい。

代謝されないという事は残ってしまうという事。

安価な油、例えば、バターの代替え商品でもあるマーガリンは、製造工程の際に固形化させる為に水素添加が施される。

その際に大量のトランス脂肪酸が発生する。

欧州の一部ではマーガリンの使用を規制している国もある。

 

個人的な意見だけど、海外製のお菓子と日本のお菓子の原材料を比べると、何故か日本のお菓子の方が危険度が高い気がする。

完璧を求める国民性も関係しているのかな?

確かに、見た目、食感、香り、形状は海外製品よりも優れて見えると思う。

クオリティーが完璧に近い。

 

でも、安全性を考えた時、そのクオリティーは必要だと言えるのだろうか?

 

私なら多少、見栄え、食感が悪くても安全性を重視したい。

日本製=安全・良質 の公式は、食品に関しては当てはまらないのかもしれない。

 

 

飽食の時代、本当に色々な食べ物が手に入る。その殆どが安全性の高くて安心出来るものであればそれに越した事はないのだけれど、見極めないと、危険な可能性を含むもので作られたものがあまりにも多すぎる。

 

何気なく手に取った商品に疑問を抱かずに購入する消費者を悪いとは思わない。

 

食品を加工、製造、販売する会社はその消費者により成り立っている。

そして消費者に安全性の高い商品を提供するまでがプロとしての役割ではないのか?

 作り手側のコストや利益重視の物作りになっていないか?

 

 

残念ながら今の日本は消費者自身が見極めないと安全とは言えない。

 

これが先進国と言われている日本の食品の現実。

 

幸せとはまず健康である事からだと思う。

病気になるリスクを一つでも減らせるようにどうか、食の世界でも平和と言える時代が1日でも早く訪れる事を願いたい。

 

写真

いつの時代もみんなこぞって、今を写真に収めるという行為は廃らないものですね。

最近では動画も写真と同じ位に活用されてますが。

カメラも使い捨てカメラの時代からするとスマホでも綺麗な画質で撮れ、本当に便利な時代になりました。

けど!いまだにあるんですね。

使い捨てカメラ。そして密かに一部ではブームになってるとか?

レトロな街並みなんかを使い捨てカメラで写すとノスタルジックな感じがより表現できて逆に新鮮らしいです。

あとは、現像されるまでお楽しみ…のあの感じもいいみたいですね。

懐かしいな~

 

先日、父が私達姉妹に不思議な話をしてくれました。

私が生まれる前に本来は姉が居たのですが一歳のお誕生日を目前に病気で天国へ行ってしまいました。

その姉と父母で旅行に出かけたそうで、その時に使い捨てカメラで写真を沢山撮ったらしいのです。

旅行から帰り、早速現像してみると…

その殆どに影のようなものが映り、全く姉が写ってなかったそうなのです。

これまでも写真なら沢山撮ってきたそうですが、姉に関しての写真だけは、まともに撮れたものがあまり残っていません。

これは親戚の集まりの話の中でも、姉だけは上手く写真に残せなかったと話に上がっていた事を思い出しました。

この今の便利な時代なら撮ったその場で確認でき、その中でも現像するものを選択する事すら出来るようになりましたが…。

 

姉の写真があまり残ってないのは姉なりの優しさのような気さえしてきました。

 

そして楽しかったであろう家族旅行のあの写真の件も…

写真が残っていても辛すぎて、もし私だったら前に進む事が出来なかったかも…

 

残された貴重な数枚の姉の写真は、私なんかとは比べものにならないくらいに綺麗で可愛くてお人形のような顔をしていました。

 

姉妹でも違うものですね……

 

何故か私の可愛くない写真は沢山沢山残っています(^_^;)

 

写真にはあまり残してくれなかった姉ですが、家族の心の中で姉は生きてます🍀